金工の歩み

はじめに

京都独自の金工を語る上で、それまでの日本における金工の成り立ちを簡単に述べることとします。
日本金工の曙、弥生時代に中国大陸、朝鮮半島より九州へ伝わった金工品は、剣・鉾・鏡などがあります。世界的な金工技術進歩よりかなり遅れ日本に入ってきたせいで、青銅器とともに鉄器も同時期に流入したと考えられています。その後、祭器としての銅鐸や銅鏡などを中心に、日本独自の発展を遂げました。
以後「鏡作部(かがみつくりべ:大陸鏡の模造)」「伊吹部(いぶきべ:地金の精錬)」「額田部(ぬかたべ:鋳型作り)」「穴師部(あなしべ:鉱石の採掘)」の専門職がおり、金工技術の発展、継承に寄与しました。
仏教伝来の飛鳥時代にもなると、金属工芸品の製作も非常に盛んになりました。
とくに東大寺の青銅大仏が鋳造された天平年間は、金工技術がもっとも興隆した時代といわれています。また、この時代には貨幣も生まれています。
わが国独自の金工技術の発展とは別に、大陸・半島から工人が多数渡来したことも判っています。官製の金属器が作られたのもこの頃です。また、鍛造の品が製作されはじめたのもこの頃です。機会あれば法隆寺、正倉院の宝物をぜひご拝観ください。

参考文献
・淡交新社 日本の工芸 金工
・至文堂  日本の美術 金工-伝統工芸
・至文堂  日本の美術 七宝
・講談社  金属なんでも小辞典

古代

平安時代

平安期の王朝貴族文化の繁栄に伴い、それまでの大陸伝来の作風から、動植物をモチーフにした日本独自の優雅なデザインへと移り変わっていきます。
現代にも通ずる「鋳金」「鍛金」「彫金」の金工技法が完成の域に達したのもちょうどこの頃です。
とりわけ春日大社神宝や天台、真言寺院法具には、多数の優れた金工品が今も伝えられています。
芸術的観点からは、相対的に見て飛鳥時代から鎌倉期のものが最も良いとされています。容姿や文様のデザインがとくに優れていて、当時の社会が本当に良い金工品を必要としたことが判ります。当初大陸から空海や最長が持ち帰った密教法具なども、その後時代をおって独自のアレンジを施し完成された美を形成していきました。

桃山期以降は、日本各地の寺院の大量建築にともない粗悪な仏具・法具もたくさん製造されもしました。金工技術そのものは高まり、手のこんだ品も多く残されています。家庭に金工仏具が入り込むのは江戸中期からです。

広隆寺梵鐘
西本願寺所蔵:平等院梵鐘との兄弟鐘にあたる

鎌倉時代以降

この時代の特筆は、「茶の湯」の発展が揚げられます。
調理器具としての鉄製釜はそれ以前にもありましたが、茶の湯が行われるにしたがって、茶の湯のための「茶釜」の製作が始まりました。
おもに、九州の現・福岡県「芦屋」、関東の現・栃木県「天明(てんみょう)」で鋳造されたそう。

中世から近世

ほんの一握りの特権階級のものであった金属が、一般町民階級にまで広がったのも桃山以降。総体的に装飾が豪華になり、金属工芸の産業化・量産化、技術者の分業化もすすみました。

京釜

大名や数寄者たちは、好みの茶釜を作らせるために「釜師」をかかえていました。信長に名越弥七郎、紹鴎に西村道仁、利休に辻与次郎、家康に仕えた名越善正が、京釜師に名を連ねています。桃山期につくられた三条釜座は、茶人や祇園社の庇護もうけて独自に発展しました。千家十職の大西家はいまもつづく釜師のひとつ。
茶釜の特色・見所は、鉄の地肌(鋳肌)の美であるといえます。釜師の性格がそれぞれの釜に現れています。現在、茶道復興とは別にして、芸術的観点から茶釜の伝統的技術・美意識が再認識されています。不可能とされた過去の名品の復刻や、新しい芸術作品としての釜が創意工夫されています。

女性の装いに必要な鏡は、桃山以降爆発的に広がりました。粗悪な量産金工品が出回るのも鏡が最初。それまで青銅・白銅で製作されていた鏡は安価な黄銅製になり、また鋳造法も踏み返し鋳物と呼ばれる量産法に移っていきます。一部、天皇家御用の白銅製円鏡も製作されていますが、やはりこれらには優品が残っています。
江戸期には時々、鏡の縁にも文様を鋳出したり、特注の誂えによる巧妙な文様を鋳造したりと、趣向を凝らす高級品も作られていたようです。
これら鏡は、文様の鋳出し技術を主にして、魔除け・祈願、富の象徴、恋愛成就や生活向上のシンボルとして貴族から庶民にまで愛されてきました。しかし明治期に入り量産のガラス鏡が庶民に広がると、銅鏡製造はあっという間に廃れていきます。現在では、神社にて神宝の一つとしてほんのわずかに使用されるだけの過去のものになりました。

仏具

桃山時代以降の仏教の衰退とともに、芸術的に特筆すべきものがありません。ただ、いくつかの良い作品も残っています。辻与次郎作、豊国神社の鉄製燈篭、方広寺の梵鐘などがあります。また第2次世界大戦時に供出に遭い、良い作品の現存が多くありません。祭祀の場所を最高の美をもって飾り立てる荘厳品、とくに寺院の堂内を彫金・象嵌・七宝技術を用いて飾り立てたのが現存しています。また僧侶の持ち物としての金工品は、「柄香炉」「錫杖」「鉄鉢」「水瓶」などがあります。

東山区豊国神社

建築金具

優れた建築金物が多く残されています。襖(ふすま)の引き手、釘隠しなど。日光東照宮に代表されるように、非常に細密で写実的な作りこみが特徴です。技術者は技巧を競い合い、華やかな金具が多数残されています。

刀装金具

後藤家に代表される家彫(いえぼり)、元は家彫の下請けだった技術者が自立した町彫(まちぼり)があります。
わが国の独特の彫金技法が発達したのは、刀装のお陰といっても過言ではありません。鍔(つば:鐔とも書きます)、目貫(めぬき)、縁頭(ふちがしら)、小柄(こづか)などがあります。もともと鍔(つば)専門工とその他の小道具工と別れていた技術者達ですが、後期にはいずれの品も小道具系彫金工の仕事となりました。ほんの小さな部品に、細かな写実的な文様を彫刻・象嵌することが多く、多彩な彫金表現技法が用いられました。比較的平穏な時代の、武家社会の装身具のひとつといえます。
明治期には、廃刀令にしたがい多くの技術者が職を失いましたが、欧米への輸出向け美術品にその技術を生かし活躍した工人もいました。

山鉾、神輿

1100年の歴史を持つ祇園祭ですが、山鉾に豪華な錺金具を装飾したのは幕末の頃。
祭りの中心である神輿を迎える儀式が発展し、現在の山鉾巡行のかたちになった。
町衆が蓄えた経済力をもって新調を繰り返し行い、、とくに彫金のありとあらゆる技法を用いて豪華絢爛に装飾した。

生活工芸品

江戸時代になるとようやく、生活的な金工品が多く作られます。筆筒、煙管(きせる)、水注、矢立、置物、鉄瓶など。
活躍したのは、村田整みん、四方竜みん、四方竜文、四方安之助、その弟子「秦蔵六」。優れた蝋型鋳造を誇りました。
町民階級の生活も華やかになり、身の回りのものに贅を尽くし、粋を凝らし始めます。根付、煙管、煙草入れ、櫛(くし)、簪(かんざし)、室内調度品などがあります。金工技法もさらに進みましたが、当時は芸術性よりも技を凝らした作品が多かったようです。

特権階級に限られていた金工が、時代とともに徐々に一般化していきます。これは世界的に見てどの国々においても言えることですが、ここ日本では特異な進化を遂げました。奈良・平安の貴族社会ではよく使われていた金属製食器が、以降になると激減します。とくに、世界中で使われている金属製の匙(さじ:スプーンの類)が、日本においてはほぼ絶滅します。皿や碗の類にも同様に見ることが出来ます。代わって木製の箸、漆器と陶磁器の使用が盛んになりました。これは、日本における食文化の発展とも密接にかかわりがあるようです。

現代

銅鐸は、祭祀器としてはじめて日本で作られた金工品です。議論は有りますが、音を出す祭器として用いられたと推測されます。はじめて金属音を聞いた古代人の感動は、大変なものだったでしょう。他に銅鏡、銅矛、など青銅器は古代人を魅了してきました。素材のもつ美しさはもちろん、その特権性や経済性にて、金属に対する特殊な想いがあったことでしょう。
対して現代社会は、金属無しでは考えられぬほど生活に入り込んでいます。建築、交通、生活用具、調理器具、工作機械など数え切れません。日常生活を支えている金属加工技術は、伝統的な手工業法に科学の発展が伴って出来たものです。これらの科学的工業的加工技術なしでは現代生活が成り立ちません。
京都の金工は明治期にその転換期を向かえ、工業的製造と、手工業的な製造、美術・芸術活動、それらを組みあわせた工芸、またクラフトデザインの路線へと分かれていきました。遷都、廃刀、生活様式の欧米化、金属文化の大衆化などが主な理由として挙げられます。現在の京都の金工界では、それらの区別をとくに設けていませんが、いまなお手業(てわざ)が数多く息づいています。

1400年前より続く「伊勢神宮」の式年遷宮においては、建築に関わる金具類の製作に京都の技術者は欠かせない存在です。遷宮とは40年に1度、そっくりそのまま新築することで建築技術の伝承を目的としています。すでに次回の遷宮に向けて、技術者達は材料などの手配に追われています。
前述の日本金工史を見れば解るように、桃山期から江戸後期にかけて日本人独特の価値観、美意識が形成されました。製品の持つ有用度や財産価値、美しさだけではなく、それだけ手間暇をかけてつくられたか、技巧に優れているかという独自の視点に立った価値をも求められてきました。ほかには「侘び」や「寂び」といった金属独特の経年変化による古美にも、日本独自の美的評価があったようです。そのせいで、世界的な金工品にたいする価値観と日本の技術者がもつ価値観との間にずれが生じているのが現状です。このことは、京都金工の今後の方向性にも影響を与えるかもしれません。